教員を辞めてから⑤
お久しぶりです。
一度更新を止めると数ヶ月単位で更新することを忘れてしまいます…
気をつけたいです。
大学院の就職活動についてです。
一般的な学部の就職活動はエントリー→選考→内定ですが、大学院の就活も特に変わりません。ただ、研究室と企業に繋がりがある場合、学校推薦で選考を受けられる機会が増えるかもしれません。
私は両方のルートを使いました。
結果としては、第一希望だった大企業の学校推薦に落ち、一般選考で受けたそこそこの大企業に3つ内定をもらいました。
学校推薦で落ちたのは単なる実力不足だと思っています。
1回働いているため年齢を重ねており、内定が出るか正直不安でしたが、とてもほっとしたのを覚えています。
年齢が不利になると感じたことはありませんでした。
ある企業で、「他の選考者より年齢を重ねていますが、あなたを我々が採るメリットは?」という質問はありましたが、その他に特異な質問はありませんでした。
むしろ厳しいと思われている学校現場にいたということが有利にみなされることもあったほどです。
「あの理不尽な学校にいたならうちでもやっていけるだろう」「体が丈夫そうだ」「部活動や授業などで集団をまとめた経験は武器になるよ」という声をもらいました。
ある会社で、年齢を重ねていますが大丈夫ですか、と聞いたときに、「30歳でも大丈夫」と言われましたし(笑)
ただ、私の場合は志望先が技術系企業だったこと、高校の教科も理科で志望先の仕事内容と共通していたこと、大学院で学歴を上げていたこと、などがきれいなストーリーを生んだのかなという気はします。
「専攻も一貫しているし、技術系志望者には中々ないコミュニケーション能力を持っていそうだし、向上心もありそうだ」という人物像にうつったのかなと。
それが年齢の壁を破った気はします。
転職をたくさんしてましたが、面接で重要なのは納得できるストーリーを作ることができるかどうかだと自信を持って言えます。
なぜ志望したのか、あなたは何ができるのか、経歴と実績から語るのです。
本当の理由を言いたくない場合は納得できるストーリーを作るのです。
相手が納得しないとダメです。
いかに納得感のあるストーリーを作るかが決め手になると思います。
そんなこんなで大学院の就職活動は数か月で終わりました。
あとは適度に遊びつつ研究とバイトに精を出して院修了です。
次回は入社した企業の経験を書きます。
電車通つらたん
私はかなり長い時間をかけて電車通勤をしています。
その長さは首都圏通勤者並みです。
理由は私的理由による転職のしすぎにあるので自業自得ではあります。
しかし、しんどいです。
とにかくしんどい。
通勤の辛さで仕事辞めようかと思うこともあるほどです。
首都圏通勤者と違うのは電車で大体座れるということですが、車輌の出す雑音、無駄にうるさく長いアナウンスと電車によるストレスは変わりません。むしろアナウンスについては田舎だからか雑なのでストレスがより大きいかもしれません。
毎日続くと辟易とします。
首都圏通勤者は満員電車でもみくちゃにされるおまけ付きなのに、これに毎日耐えているのでしょうか。
hsp気味の私からすると信じられません。会社着いた頃にはガス欠で一歩も動けませんね。
電車通の苦痛を和らげる方法ありませんかね。
早くセミリタイアしたい(笑)
教員を辞めてから④
大学院の生活について書きます。
私は理系でしたので、いわゆる実験室に住む生活を想像されるかもしれませんが、実際はサラリーマンと変わらないリズムで生活してました。
朝8時起床、9時登校、18時まで研究、というスケジュールです。
2000から2300まではバイトしてました。個別塾の講師です。
教師経験を金に換えないともったいないですからね。
主に中学生、高校生に教えていました、専門と違う数学を(笑)
学力も様々です。四則演算が怪しい子から地域のトップ校の上位で医学部を目指す子まで。
四則演算が怪しい子に中高の学習内容を理解させることは大変でしたが、素直でかわいかったです。
トップ校の子、トップくんは文化や芸術に造詣が深く、話していて楽しかったです。彼に教えてもらったゲームソフト「スローンとマクヘールの謎の物語」は、今でもたまにやってます(笑)しかしこちらも教えることは大変でした。「これ教えてください」と持ってきた学校の宿題が京大の入試問題だった、なんてこともざらでした。せめて理科を持ってきてくれと思ってました。
私は理学部でしたので、研究の大きな目的はわからないことを明らかにすることでした。
サンプルを化学的な手法を用いて分析し、そのデータからそれらしいことを主張するってことをやってました。
研究を通して非常に多くのことを学べました。
事実からの主張はビジネスでも研究でも本当によく使うスキルです。このスキルのレベルを最低限のレベルまで高められたお陰で仕事が少し楽です。また、学んだ分析手法や専門知識は直接仕事に役立っています。
一度社会に出て学生にもどったせいか、周りが子どもに見えましたし(今思うと偉そうです)、年齢を重ねているのに学生でいいのか焦ったり、本当に就職できるか不安だったり、心の中は不安定な状態が続いた時もあります。けど、いま思うとあの時の年齢は若いし、努力してたし、今思うとなんとでもなったなと思います。あの時の自分に、大丈夫、お前を求めるところはある、と言ってやりたいですね。
つまり、大学院はとてもいい時間だったということです。お金も使ったし(笑)、年齢も重ねたけど、死にそうなまま仕事を続けてなくてよかったなと思いました。
次は大学院の就職活動について書きます。
モチベーション
民間で働いてから、教師をやってたときのような奮い立つやる気が起こったことがありません。
教師やってたときは、この子のために頑張ろう、俺がやらないと誰がやるのか、などの考えが浮かんでました。考えに伴いやる気も沸き起こりました。
ところが今は似たようなことが一切ありません。大量のやるべきことに追われ、どう処理するかを考えるのみです。
なんでだろう?と思っていたらこんな記事を見つけました↓
教師、親などの役割がモチベーションを上げるという内容です。
青臭いかもしれませんが私は確かに俺は高校教師だと役割を自分に言い聞かせてました。
けど今は何もありません。
ただの一社員としか思ってません。
働くことに疲れてきて、会社に何も求めなくなってるので、金を稼ぐために働いている感じです。早く辞めたいですし。
そりゃモチベーションもあがりません。
役割を認識し、役割を全うする。そのために努力する。ここが重要かもしれません。
何日間か意識してみます。
教員を辞めてから③
教員を辞めて大学院に進学した話をします。
大学院の選択は非常に重要です。
最終学歴というスペックのひとつが変わるわけですから。
年齢を重ねて院進学をするうえで心配なのは就職活動でした。
未だに日本の会社で学歴が重要なのはわかっていたので、そこそこの大学に行きたかったのです。
ですので院選択にあたり、普通は研究室から大学を選ぶと思いますが、私は自分の母校より偏差値の低い大学は除きました。
その上で自分のやりたい研究のできる研究室を選びました。
実は学部の頃と専攻を変えようと考えていたのですが、ご存じのとおりの教員の激務さです。院試の対策まで手が回りませんでした。
結局は専攻を変えず、研究室訪問、院試と経てそこそこ有名な大学に入学しました。
大学院はとても楽しかったです。
将来への就職の不安や、バイト、研究、就活の両立など大変でしたが、充実していました。
次は大学院の生活を書きます。
教員を辞めてから②
私は教師を辞めてから大学院に進学しました。
進学後の話をする前に、辞めるときの話をしようと思います。
教師の世界では12月に校長たちが集まる人事会議があり、そこで自校の退職者の名前を提示するそうです。
したがって12月までに退職者は退職する旨を校長に伝えなければなりません。
確かに、12月頃に「退職の意思がある方は申し出てください」と校長から案内があった気がします。
しかし、私が伝えたのは2月の頭でした。
理由は、辞めることをギリギリまで知られたくなかったことと、一般企業の退職申し出ルール「2週間ないし1ヶ月前まで」を知っていたからです。
ルールがあるならそれにのっとればいいよね、という軽い気持ちで月日を過ごし、2月頭に申し出たというところです。
2月頭というのも、辞めることがバレたから、ですが。
言ったようにギリギリまで知られたくなかったので、伝えるのは2月末の予定でした。どうやら大学院受験のパンフレットを同僚に見られていたようで(笑)
痛恨のミスですね。とても気まずかったです・・。
そんなこんなで2月頭に伝えるハメになりました。
伝えたときはあらゆるところから非難の嵐です。
12月までになぜ言わなかったと。
そんなこと知りませんよ。私は社会一般のルールにのっとって動いていただけですし、教員の世界の人事会議の時期などぺーぺーが知る由もありません。
平謝りするしかなかったですが。
非難の中で「誰にも相談しなかったことが悪い」という内容がありましたが、
これには納得しました。確かに誰か信用出来る人に相談していれば早めに伝えていたかもしれないし、もしかすると辞めなかったかもしれません。
しかしそもそも信用出来る人がいなかったんですがね。
これは私のコミュ障により人に心を開かなかった結果と思っています。
そんなこんなで2月頭に伝えた退職は、無事受理されたわけです。
ただ、正直、究極的にはいつ伝えようが後任は県が見つけてくると思います。
今のところ教員のなり手はいっぱいいるので。
次回は教員を辞めた後の大学院の生活を書こうと思います。